また走れるようになりたい

2017年なかなか治らないインフルエンザ様症状により離職。脳脊髄液減少症と判明。2019年現在ブラットパッチ2回。自宅安静療養中の記録。在宅収入を得るため模索する日々。

忘れないように考える日

3月11日。366種類ある日付のうちの、たった1種類に過ぎないのに「あぁ、あれから8年なのか」と感じてしまう特殊な日です。

でもこうやって感じれるという人は、この日に何らかのダメージをおった人であるということでもあります。


言い方は悪いのですが終戦記念日など実際に経験してない日は、学校で学んだなぁくらいに思ってしまいます。つまり当事者ではなかったから歴史的な日に留まってしまっています。しかし当事者にとっては何十年経っても癒えるものではないことには変わりありません。


今日3月11日も、何十年も経てばこのようになってしまうのでしょうか。


戦争と震災は真逆の存在ではあるので比べる方がおかしいのは百も承知です。でも癒えぬ傷であることには変わりありません。

あの日

8年前、わたしは東北にいました。日本海側にいたので津波の被害はありませんでした。それでもあの瞬間は今でも映像として脳内を流れます。震度6弱。経験した事のない揺れは何かに掴まっていないと転がっていきそうな程でした。


停電もしており職場では帰宅命令が出ました。しかし信号は止まっているので、普段なら車で30分の帰路も2時間以上かかりました。当時の家はどうしても踏切を越えないと行けないのですが、停電により踏切は閉まったままでした。決して大きな踏切ではなく、車同士がすれ違うのがやっとな幅。わたしの前には2~3台立ち往生してました。呆然とハンドルを握ったまま他のルートを考えましたが、踏切なくして帰れません。


ただでさえ非日常な事の連続、そして2時間以上の渋滞を運転してきた後なので脳みそは停止寸前。どうしよう、、、と真っ白になっていたら前の車が動き出したではありませんか!!


驚きながらも進んでいくと、踏切のバーを数人で上げてくれてるではありませんか!!おそらく近所の方が自発的に行動してくださったのでしょう。あの時は後ろも車が溜まっているし、とりあえず先に進まねばという気持ちでお礼をする事もできませんでした。


あの方々も大変な中、見ず知らずの他人の為に行動が出来るということは冷静に考えると凄いことです。当時のわたしは混乱し、かつ幼かったせいもあり、その凄さを感じ取る余裕はありませんでした。


8年間このことを書いた事もありませんでした。この場をお借りして「ありがとうございました」。


教訓も

あの時は8年後にこんな生活をしているなんて想像もつきませんでした。でも生きてさえいたら未来はある、、、これは震災を通して学んだことです。


どんなに健康体でもお金持ちでも幸せの絶頂でも権力のある人でも、1秒後に自分が生きている保証がある人はいません。ここはみな平等なのです。



自分が気付かぬうちに死んでしまう事だってあるでしょう。だから今「生きてる意味はあるのか?」という身体の状態ではあっても、このことを思い出すようにしています。自然災害や戦争が起これば生きたくても、、、。



亡くなられた方のご冥福をお祈りします。そしてまだ行方不明の方が一刻も早く見つかりますように。そして避難を続けられている方が穏やかに過ごせますように。


今のわたしには出来る事は限られていますが、わたしに出来る事をもがきながらやっていきます。



2018.3.11

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