また走れるようになりたい

原因不明の体調不良で継続困難になり離職、現在ほぼ寝たきり生活中。脳脊髄液減少症でブラッドパッチ1回。HANSに症状が似てるということでBスポット療養をしてみている。症状・通院・その他の記録。

何故か感じる違和感には理由があったりなかったり

「死にたい」と言う人に対して「死んじゃダメだよ」って答えることに抵抗があった。


でも何故そう感じるのかが分からなかった。一般的には『偽善だからじゃない?』って言う人もいるだろうけど、偽善なんて他人が評価するモノサシではないと思ってるからこれも違う気がする。

今朝ふと感じた

今朝は久しぶりに相棒の出勤前に身体を起こす事ができて、お見送りできた。お見送りは、まず玄関で「いってらっしゃい」をしてから駐車場が見える窓へ移動し手を振るという流れ。


この窓から手を振って車が居なくなるのを見届けてた時に、「死ぬのが怖い」と感じた。何故そのタイミングなのか分からない。ただそこで降りてきた感覚。

それまでは「自由に動けないなら死んだも同然じゃん」とか「補助がないってことは、死ねって言われてるようなものなのかな」「わたしは(今話題の)生産性のない人間だから生きてる資格ないのかね」とかボンヤリ考えたりもした。



窓から手を振っていた時走馬灯のように思い出したのは、「あぁ、あの人に迷惑かけたなぁ。自分の病気のせいで。ごめんなさいって言えてないなぁ。」という記憶。そして「迷惑かけてるからわたしは死んだら地獄へ行くんだろうな」という流れ。

(迷惑かけたなぁとかっていうのは、あくまでわたしが勝手に想像して思ってるだけであって本人がどう思ってるかなんて本人しか知らない。なんていうのは置いといて)


まぁわたしの地獄感は明らかに『鬼灯の冷徹』の影響だろう。

そこで「死んだ方が今よりは辛いよな」という思いに至った。そう、だから死ぬのが怖くなった。


怖いと表現はしてるけど何も手につかない程とかのレベルでなく、「あぁ怖いなぁ」という感じ。

それから2時間くらい

ぼわやり頭の中を巡って出た想いは
今より辛いなら病気でも今の方がいいじゃんっ!って。起点はネガテイブかもしれないけど、結果としてポジティブなのかもしれない。

だけど何となく繋がった

冒頭の煮え切らない想いというか、抵抗があった言葉。「死にたい」と思ってる人の本当の辛さは他人には到底同じ大きさで感じることはできないから。できたとして寄り添うことしかできないから。

だから「死んだらダメだよ」に抵抗があったのかもしれない。その人にとっては死んだ方が楽かもしれないし、死んだ方が辛いかもしれないなんて分からない。あくまで他人は残された側からの意見しか言えないんだっていう思考に至った。


「ダメだよ」って言ってる側は親身に考えてくれて答えてるかもしれないし、言い出した人は「ダメだよ」って言ってもらいたくて言う人もいるかもしれない。


だから他人同士が言い合ってる事にケチをつけるわけではない。

その日のために

ただ、もし、わたしが大切な人から「死にたい」と言われたら何と答えるのか。考えた所で答えなんかあるのかすら分からないけどね。

「死ぬ」って話はタブー扱いされがちなイメージがあるから、なかなかそんな議論を他人とすることってないよね。『終活』って言葉も最近耳馴染みしてきた言葉のようにも感じるし。

さいごに

みんないつかは死ぬのにね。自覚あるなしに関わらず。明日生きてる保証なんて誰にもない。病気じゃなくたって自然災害や事故・事件で、どんなに元気で有能で将来性のある人も突然死んでしまうこともある。だから今を生きなきゃって思う。


客観的に『死』に対して考える事は悪い事じゃないと思うんだけどね。



なーんて、いつものように訳わからない文章を綴ってみた。

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2018.07.28.12:00